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#12 今村庸一のボクシング・アカデミー:バンタム級とフェザー級の間 1970年2月26日の名勝負

井上尚弥とスーパー・バンタム級の日本人世界王者たち


5月に行われた東京ドームの世紀の一戦、中谷潤人との激闘を制した井上尚弥は、全階級を通じて名実ともに世界最強PFP(パウンドフォーパウンド)1位の評価を受けた。

その井上尚弥が保持しているのが、世界4団体のスーパー・バンタム級タイトルである。

スーパー・バンタム級は、118ポンド(53.52kg)から122ポンド(55.34kg)、つまりバンタム級とフェザー級の間にある階級である。

このクラスで過去に世界タイトルを獲った日本人ボクサーは、10人いる。

ロイヤル小林(WBC)、畑中清詞(WBC)、佐藤修(WBA)、李洌理(WBA)、下田昭文(WBA)、西岡利晃(WBC)、長谷川穂積(WBC)、小國以蔵(IBF)、岩佐亮佑(IBF)、そして井上尚弥(4団体)の10人。

いずれも個性的で記憶に残る試合をしたチャンピオンたちであった。

17階級への道——「ジュニア」から「スーパー」へ

このスーパー・バンタム級は、世界タイトルが出来たのは実は比較的新しいクラスだ。

プロボクシングの世界タイトルの階級は、古くは8階級に分かれていた時代があって、軽い方からフライ級、バンタム級、フェザー級、ライト級、ウェルター級、ミドル級、ライト・ヘビー級、ヘビー級の8階級が基本となっていた。

最重量級のヘビー級のひとつ下のクラスとしてライト・ヘビー級があったが、その後、各々の階級間に新しいクラスを設けて細分化されるようになり、現在ではミニマム級からヘビー級まで17階級で世界タイトルが争われている。

新しいクラスを設置するにあたり、当初は既存の階級から「ひとつ下のクラス」という概念で「ジュニア」をつけた階級が設けられるようになった。現在のスーパー・バンタム級も発足当初はジュニア・フェザー級の呼称が一般的に使用されていたのであった。

やがて「ジュニア」というのは何か実力が劣るような印象を受けるので、伝統的な階級の「ひとつ上のクラス」の呼称を使った方がいいということになり、最初はWBCのタイトルから同じ階級でも「ひとつ下のジュニア」ではなく「ひとつ上のスーパー」が使われるようになった。

そのためバンタム級とフェザー級の間のクラスは「ジュニア・フェザー級」から「スーパー・バンタム級」と呼ばれるようになったわけである。

スーパー・バンタム級の誕生とロイヤル小林

バンタム級とフェザー級の間に新しいクラスを作ることになったのは半世紀ほど前のことだ。

まず1976年にWBAがジュニア・フェザー級を新設し、初代王者にパナマのリゴベルト・リアスコが認定された。同年このリアスコをKOしてこのクラスでは日本人として最初に世界チャンピオンになったのがロイヤル小林だった。

WBCも翌1977年にこのクラスの世界タイトルを新設し、初代王者には韓国の洪秀煥が認定された。

実はこのクラスは世界タイトルが存在しなかった時代から日本タイトルや東洋タイトルがあって、過去にはこのクラスに名ボクサーが何人もいたのである。

OPBFとWBCが変えた階級の呼び名

現在の東洋太平洋ボクシング連盟(OPBF)の前身は、日本、フィリピン、タイの三か国で1954年に発足した東洋ボクシング連盟(OBF)に遡る。1977年にオーストラリアとニュージーランドを加えた組織に拡張され、名称も東洋太平洋ボクシング連盟(OPBF)と改称されるようになった。

このOPBFはWBCとの関係が深いことから、階級の名称も「ジュニア表記」から「スーパー表記」にされるようになり、バンタム級とフェザー級の間の階級も「ジュニア・フェザー級」から「スーパー・バンタム級」と言われるようになった。

昭和の東洋チャンピオン・岡田晃一

そのバンタム級とフェザー級の間のクラス。昭和の時代に、岡田晃一という東洋チャンピオンがいた。古いボクシングファンの方なら覚えていると思うが、このクラスを代表する名ボクサーでもあった。

岡田晃一は立教大学からプロ入りした当時としては珍しい学士ボクサーだ。アマチュア時代には1964年の東京オリンピックの強化選手にもなるほど注目されていて、1967年にプロ入りしたあと素早い動きと小気味のいいショートパンチ、そしてアマチュア時代に鍛えた巧みなディフェンス技術を駆使して連勝し、プロ10戦目で東洋ジュニア・フェザー級タイトルを獲得した。

大学卒のインテリボクサーの異名を持ち、パンチ力こそ劣るもののその頭脳的な試合運びで着々とポイントを重ねるタイプのボクサーだった。

ただ岡田晃一にとって不運だったのは、前述したように当時このクラスには世界タイトルがなかったことだった。この頃、ジュニア・フェザー級の世界タイトルはなく、このクラスのボクサーが世界タイトルを目指すのであれば、一階級上げてフェザー級にするか、一階級下げてバンタム級にするかしか方法がなかった。

世界を狙える実力を持つようになってきた岡田晃一が選んだのは、一階級下げてバンタム級の世界ランキングで上位にいくことだった。

怪物オリバレスと世界バンタム級の時代

この時代の世界バンタム級と言えば、1965年にファイティング原田がエデル・ジョフレからタイトルを奪い二階級制覇したあとオーストラリアのライオネル・ローズに敗れ、その後、挑戦者決定戦で桜井孝雄をKOで下した怪物ルーベン・オリバレスが、ライオネル・ローズもKOで破り世界バンタム級王座に就いていた。

このオリバレスを目標にして次の時代を担う日本人は誰になるのか。こうした期待も集めて世界バンタム級で日本人の世界ランカー同士が対戦することになった。それが、1970年に行われた桜井孝雄と岡田晃一の一戦である。

1970年2月26日——桜井孝雄 vs 岡田晃一

東京オリンピックで金メダルを獲得し、ライオネル・ローズにも僅差で惜敗した桜井にとっては、オリバレスに捲土重来を期すために負けられない一戦である。一方の岡田晃一にとってみれば、バンタム級のひとつ上のジュニア・フェザー級の東洋チャンピオンとして実績を積み、階級をひとつ下げて世界に挑むやはり負けられない試合だった。

1970年2月26日。世界バンタム級のランキングでは、桜井孝雄が1位、岡田晃一が4位。世界ランカー同士の注目の日本人対決が実現したのであった。

この試合は当日の深夜にテレビで放送されたのだが、バンタム級でファイティング原田の後継者はどちらになるのかという関心を集めて、ノンタイトル戦としては異様な盛り上がりを見せていた試合だった。

サウスポーの桜井もオーソドックスの岡田も、高度なテクニックを持つボクサーの対決となり、試合開始から緊張感溢れる駆け引きからスタートした。

両者少し動きがほぐれてきた2Rのことだった。桜井のしゃくり上げるような右ショートアッパーから、間髪をいれず左ストレートが岡田を捉えた。岡田がたまらずダウン!

さすが金メダリストで世界ランク1位の貫禄を見せた桜井の速攻だった。岡田も必死にパンチを繰り出すが、桜井の変幻自在の動きと深い懐の構えを崩すことが出来ない。結局、このダウンが決定打となって、岡田晃一は桜井孝雄に判定負けした。

ボクシングにタラレバはないのだけれども、もし岡田晃一がこの試合に勝っていたら、もしあの試合でダウンをしなかったら、そして、もしこの時にジュニア・フェザー級(スーパー・バンタム級)の世界タイトルがあったら……。などと考えてしまうのだ。

56年の時を超えて

今年2026年に行われた井上尚弥と中谷潤人の4団体世界スーパー・バンタム級タイトルマッチは歴史に残る名勝負になった。

この同じクラスの東洋チャンピオンだった岡田晃一が、今から56年前にバンタム級の世界王座を目指して金メダリストの桜井孝雄と戦ったことも、多くの人に知っておいてほしいと思うのだ。

まだ世界タイトルが各階級にひとつしかなかった時代。そしてバンタム級とフェザー級の間には世界タイトルがなかった時代。

1970年2月26日に行われた、桜井孝雄と岡田晃一の試合も、このクラスで二人の人生を賭けた歴史に残る名勝負であった。
理事長:今村庸一

理事長:今村庸一
1956年生まれ。駿河台大学メディア情報学部名誉教授。メディア論。東京大学大学院社会学研究科卒。
放送作家として数多くのスポーツ番組の企画・構成を担当。1990年よりWOWOWエキサイトマッチの構成を10年間担当。「ワールドボクシング」にもコラムを連載するなど多数執筆。

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