
エディさんとの別れと伝説
エディさんが亡くなってから、もう38年もの時が経過した。
かつて所属先を持たないジプシー・トレーナーと言われ、数々の世界チャンピオンを育て上げた伝説的なボクシング・トレーナー、エディ・タウンゼントさんのことである。
エディさんを知らない若い世代の人たちでも、その名は一度は聞いたことがあるはずだ。藤猛、海老原博幸、柴田国明、ガッツ石松、友利正、井岡弘樹の6人の世界チャンピオンを育て、日本のボクシングの歴史において傑出したトレーナーだったことは、誰もが知るところだ。
エディさんが亡くなったのは、1988年2月1日。
この前日に、大阪で行われたWBC世界ミニマム級チャンピオンの井岡弘樹の初防衛戦。このときすでに癌に侵されて深刻な容体だったにも関わらず、エディさんは井岡の試合を見るために担架で会場の控室まで来ていたのだ。しかし、試合開始直前になって病状が急変しそのまま病院へ運ばれた。
その事情を知らなかった井岡はそのままリングに上がり、最終12Rに李敬淵を劇的なTKO勝ちで下し初防衛に成功。病院のテレビでこの結果を知ったエディさんは、その翌日静かに天国に旅立った。
このまるで映画のようなラストシーンは、多くの人々に大きな感動を与えた。そのときからもう38年の歳月が流れたわけである。
44年前のテレビ取材
実は私も若い頃、エディ・タウンゼントさんの取材をしたことがある。
それは、今からもう44年前の1982年のことだ。私はまだ20代の半ばで、すでにテレビ番組の制作に携わっていたのだが、その年の秋にTBSで放送された30分のスポーツドキュメンタリーのスタッフに選ばれた。その企画会議のときに、エディさんの話題が出てきて、どんな人物なのか調査した上で「チャンプを作る男 エディ・タウンゼント」というタイトルの番組を作ることになった。このときの先輩のディレクターがボクシング好きだったこともあって、私とはいろいろと話が合った。そのせいか、私はこの番組の企画や取材や編集などの多くを任されたのだった。
その当時エディさんは、東京・板橋区にあった三迫ジムに所属していて若いボクサーたちの面倒を見ていた。風貌からすると、頭髪は薄く、顔には深い皺が刻まれていてかなりの高齢のように見えたが、このとき69歳だったことが分かった。
エディさんの足跡を追った本としては「ジプシー・トレーナー」(スポーツライフ社・沢木耕太郎解説)が出ていた。そこにエディさんの経歴が書いてあった。エディさんは1914年ハワイ生まれで、戦前にはハワイでプロボクサーにもなっていたのだが、その後1941年にはハワイで日本軍の真珠湾攻撃があり、戦争でボクシングを続行することは出来なくなったという。
戦後になってから、エディさんが日本のボクシング界と関わるようになったのも数奇な縁からである。1962年にたまたまハワイを訪れていた、プロレスの力道山と知り合ったのがきっかけで、日本にボクシングジムを開設することになり、日本でも強いボクサーを指導するために来日することになった。しかしその翌年、力道山が不慮の死を遂げたため、エディさんはそのまま日本に残り、日本のジムを渡り歩きながらボクシングトレーナーを続けることになったという。
その後、海老原博幸や藤猛などの世界チャンピオンを育てたことで注目され、全国に名前が知られるようになった。
三迫ジムで出会ったエディさん
1982年の秋に、私は番組のスタッフのひとりとしてエディさんを訪ねて三迫ジムに行った。最初に岡川トレーナーがジムを案内してくれて、エディさんを紹介してくれた。当時の三迫ジムには、デビューを控えた若いボクサーや、これからタイトルを狙う中堅のボクサーなどがいて、各々が元気に練習に励んでいた。スパーリングをしているリングの奥から、一段と甲高い声が聞こえてきた。
エディさんだった。
69歳の初老のトレーナーとは思えないほど快活で活気ある様子だった。その日は応接室でインタビューを収録することになっていたのだが、なかなかエディさんがリングから戻ってこない。どうしたのだろうと思って見てみたら、さっきまでスパーリングやサンドバッグを打っていた若い練習生たちに囲まれて、大声で何か話しては爆笑していた。もう自分の孫くらいの選手たち相手に何を話しているのか気になったが、どうやらエディさんお得意のスケベな話をしていたらしい。
とにかく仕事を優先させるためにインタビューのための準備にとりかかった。
世界王者たちが語るエディさん
エディさんは開口一番、ボクシングを教えることが何より好きだと言っていた。もしもう一度生まれ変わったとしても、またボクシングトレーナーをやるだろうとも語っていた。
エディさんの話。
「僕にとって、教えることが全て。ボーイ(若い選手)たちが、だんだん強くなっていくのを見るのが本当に楽しい。まだまだいけますよ」
そう言って、目の前で力こぶを見せてくれた。
夜の帳(とばり)が降りてきて、夕方になると、三迫ジムの元世界チャンピオンたちが続々やって来た。前WBA世界S・ウェルター級王者の三原正と、前WBC世界L・フライ級王者の友利正だ。
実はこの年は、二人とも初防衛戦に敗れて王座を手放していたのだが、まだまだ現役を続行する意欲満々で、毎日ジムへ来てトレーニングをしているようだった。友利は実際に、エディさんの指導を受けて世界タイトルを獲得していたし、三原は直接の指導は受けなかったものの同じジムに所属していたこともあって、エディさんのことはよく知っているようだった。ふたりともエディさんについては、とても高く評価して感謝していた。
トレーナーとして実際にどんな存在なのか聞いてみた。
友利正:「エディさんはあまり細かいことは言わないんですよ。僕がタイトルを獲ったときの相手がパンチャーだったので、とにかく相手のパンチを食わないように足を使って、リズム、リズムって、そればっかり言ってましたね。それ以外のときは、ボクシングの話はしないで、控室から冗談ばかり言ってリラックスさせてくれるんですよ。それで雰囲気を作って、試合をする前から相手を呑んでるっていう感じでしたね」
三原正:「エディさんのアドバイスを聞く耳を持っていれば、どんどん才能を伸ばしてくれるトレーナーだと思いますよ。自分の場合はとても優しさを感じたんで、エディさんの魅力は、何といっても包み込んでくれるような優しさじゃないでしょうか」
世界の頂点を経験した友利も三原も、トレーナーとしてのエディさんの魅力は、技術面というよりも、緊張を解く一言や安心させる精神面へのアドバイスにあると答えていた。
海老原博幸とガッツ石松の証言
後日、エディさんが育てた世界チャンピオンのうち、海老原博幸とガッツ石松のインタビューも撮影してきた。
海老原はすでに引退して八王子のスナックを経営していたが、エディさんの思い出となると、もう語り尽くせないほどいろいろな話を聞かせてくれた。
海老原博幸:「もうエディさんみたいなトレーナーは、日本では誰もいませんよ。アルゼンチンまで行って世界タイトルに挑戦したときに、向こうは真冬で寒い朝もランニングしなければならなかったんですけど、たった一人でポケットに手を突っ込んで、僕のことをじっと見ていてくれたのがエディさんでした。それを見て、ああ、この人のために一生懸命頑張らなくちゃいけないなと思いましたよ。そんな風に思えるようなトレーナーは、もういないんじゃないですか」
ガッツ石松もすでに現役を引退していて、タレントや俳優の仕事に忙しそうだった。この年は銀座の劇場で「じゃりン子チエ」の舞台に出演していたときだったが、楽屋でエディさんの懐かしい思い出話をしてもらった。
ガッツ石松:「エディさんはね、試合の1カ月前の合宿先で俺が減量しているときに、夜になると近くの居酒屋でお酒を飲みに行くんですよ。それで俺もちょっと行こうと思って顔を出すと、普通のトレーナーだったら試合の1カ月前なんでバカタレって怒られると思うんだけど、エディさんはそうじゃないんですよ。ああ、飲もう飲もうって言って少し飲ませてくれるんですよ。そのあとね、じっと俺のこと見ててね『石松、大丈夫?大丈夫ね』って言うんですよ。それを聞くとね、こっちもハメ外しちゃいけないなと思うようになって、真面目に練習するようになるんですよ。そういうところがありましたね」
減量がきつかったガッツ石松にとっては、合宿先のエディさんの優しいアドバイスは身に染みたようだ。
4人の世界タイトル経験者の話では、いずれもエディさんの優しさと温かさに触れていて、世界を目指すボクサーにとっては、こうした人間的な信頼関係が何よりも大切だということがよく分かる話だった。
エディさんが忘れられなかった田辺清
数多くのボクサーを見てきたエディさんにとっても、忘れられないボクサーがいるという。
これまで指導したボクサーの中で、どうしても世界チャンピオンになってほしかったのは誰かと尋ねてみた。そうしたら少し考えてから、エディさんは穏やかにそのボクサーのことを話し始めた。
「その人、世界チャンピオンになってほしかったけど、なれなかったの。それはキヨシ・タナベ(田辺清)という人ね。(ローマオリンピックで銅メダルを獲ってプロ入りしたあと)タナベは、当時のプロの世界チャンピオン(アルゼンチンの)オラシオ・アカバロと対戦してKOしたの。でも、その試合はノンタイトル戦だったのね。それで今度は本当に世界タイトルをかけてリマッチで挑戦することになって、もう契約書も書いてあったの。試合さえすれば、絶対に世界チャンピオンになれるボクサーだったの」
それまで、昔を懐かしむように田辺清の世界挑戦までのことを話していたエディさんの表情が、ここで急に怖い顔に変わった。そして、言った。
「練習が終わってみんな休んでいたの。部屋の中に大きなタンク(金魚鉢)が置いてあって、中に金魚が泳いでいたの。それを見て僕がタナベに言ったの。『タナベ、赤い金魚綺麗だね』。そうしたら、それを見てタナベはふっと笑ったの。『金魚?そんなの見えないよ』って。それで、えっ!と驚いて、もう一度聞いたの。『右目は見えますか?』。タナベは『見えますよ』。『それじゃ、左目は見えますか?』……タナベは『見えない!左は何も見えない!』。そう言ったんですよ。すぐにお医者さんに連れて行って診てもらったの。そうしたら網膜剥離だと分かったの。もう泣きたい。泣きたいけど、網膜剥離のボクサーは試合は出来ません。残念だったけど、それで試合はやらせないことになったの。本当に悲しいことだった」
エディさんは、タナベの悲劇を話し終わると、少し視線を下に落として、小さくため息をついた。ローマオリンピックで、日本人初のメダリストになり、プロ入りしたあとも現役の世界チャンピオンにノンタイトル戦ながらKO勝ちしていたにも関わらず、世界タイトル挑戦の直前に、網膜剥離の悲劇に見舞われた田辺清。エディさんの長いボクシング人生の中でも、タナベのことは忘れられないショッキングなことだったに違いない。
このとき、実際にエディさん本人の口から、この話を聞くことが出来て良かったと思った。眼疾の悲運さえなければ、田辺清は確実にエディさんが育てた世界チャンピオンのひとりになっていたであろうし、時は過ぎて現在は浜田剛史さんが会長を務めている世界チャンピオン会のメンバーに名前を連ねていたことだろう。
1982年、もう今から44年も前のことになるが、このエディ・タウンゼントさんの「チャンプを作る男」の番組制作に参加することが出来て、私自身とても幸運であった。もうエディさんもいないし、田辺清の悲運を語れる人もいなくなってしまったが、ぜひ、現代の若い世代のボクサーやボクシング関係者には、エディ・タウンゼントさんや田辺清さんのことも知っておいて欲しいと思う。
山手線で交わした10分間の会話
このとき、三迫ジムには何回か取材や撮影に行ったが、夜になって現地解散になることがあった。東武東上線で池袋まで来て、そこで各自帰宅するのだが、どういうわけか池袋から国鉄(現JR)で新宿方面に行くのは、私とエディさんだけになった。
池袋の雑踏を抜けて山手線のホームに行くと、結構車内は混んでいるようだった。山手線に乗車すると席は満席で、私とエディさんはホームと反対側のドアの前に立った状態でしばらく乗車することになった。そこからの約10分間、私は伝説的なボクシングトレーナー、エディ・タウンゼントさんと二人きりで、文字通り、鼻を突き合わせる距離で話をすることになったのだった。
私がその日の取材に対するお礼を言うと、エディさんは真面目な顔をして私を頭の先から足の先まで見て言った。
「あんた、ボクシングやらないの?」
「え?僕ですか?ボクシングはやりませんね」
「ふーん、やらないの」
と言いながら、エディさんは少し考えるようにして、いきなり私の二の腕をつかんだまま内緒話でもするように、顔を近づけて言った。
「いい体してるじゃないの。何かスポーツしてたの?」
何だか不穏な雰囲気になってきた。私も何をされるのか分からないので少し警戒しながら返答した。
「ええ、まあ子供の頃からスポーツはいろいろやってはいましたけど……」
それを聞いたエディさんは、私の腕を握ったまま、さらにギュッと強く握りしめるようにして言った。
「いいこと教えてあげる。ウチに来ればボクシングできますよ。私が教えてあげる。チャンピオンにしてあげますよ。その気になったら、いつでも連絡してください」
と言って不気味な笑いを見せた。
「!!!!!……はあ、まあ考えておきます……」
44年を経て思うこと
山手線が新宿に着いた。エディさんはここで降車するようだった。
エディさんは、私の顔を見て、今度は笑顔でウインクをするようにして降りて行った。池袋から新宿まで、わずか10分ほどのことだったが、これが私の人生で最もエディさんと接近した状態で交わした会話である。
あれからもう44年もの歳月が過ぎた。
テレビ番組の制作に加わってまだ新人だった私にとっても、この年のエディ・タウンゼントさんとの出会いは忘れられない出来事になった。
もしあのときの山手線の中のエディさんの誘いを受けていれば、もしかすると私も今ごろ世界チャンピオン会のメンバーになっていたかもしれないなあ、などと思ったりする今日この頃である。

世界チャンピオン会 顧問:今村庸一
1956年生まれ。駿河台大学メディア情報学部名誉教授。メディア論。東京大学大学院社会学研究科卒。
放送作家として数多くのスポーツ番組の企画・構成を担当。1990年よりWOWOWエキサイトマッチの構成を10年間担当。「ワールドボクシング」にもコラムを連載するなど多数執筆。

