9月の名古屋で行われたWBC世界ミニマム級王座決定戦に出場した高田勇仁のコーナーに、珍しい人がいた。
79歳のライオンズジム古山哲夫会長である。ジム開設から40年を経て初めて臨んだ世界戦の舞台だった。
この人こそ現役時代、強打で知られたあのライオン古山その人であった。

「アンラッキー・ブルース」に描かれた男
かつて、ボクシング専門誌の編集長を務めた山本茂の名著に、「アンラッキー・ブルース」という本がある。世界タイトルを獲る実力はありながら、様々な不遇が重なり、栄冠を掴めなかった10名のボクサーを綴ったものである。
その中で最も印象強かったのが、世界スーパーライト級タイトルに三度挑戦しながら、世界チャンピオンになることができなかったライオン古山だった。サウスポーから繰り出される左の強打は強烈で、日本及び東洋のこのクラスでは、まさに無敵の存在だった。

あと数センチの衝撃。初挑戦が残した悔しさと可能性
最初に世界挑戦のチャンスが巡ってきたのが1973年。パナマで、当時無敵のWBA王者コロンビアのアントニオ・セルバンテスに挑戦した。圧倒的不利の予想だったが、王者は古山の強打を警戒して打ち合わない。最初からポイントアウトの判定勝ちを狙っているように見えた。挑戦者のパンチもなかなか届かない。
しかし迎えた12ラウンド、一瞬の隙をついて踏み込んだ古山の左が、セルバンテスを捉えた。セルバンテスの腰が落ちて、危うくダウン寸前になるところだった。しかしそのピンチをクリンチで逃れた王者は、そのまま最後まで逃げ切り大差判定で防衛した。
あの一瞬のチャンスを生かせなかったことに悔いが残るが、大健闘の初挑戦だった。
強さはあった。それでも届かなかった世界の壁
ニ度目のチャンスはすぐやってきた。翌1974年ローマで、WBCの空位の同級タイトルを、スペインのペリコ・フェルナンデスと争った。試合は一進一退で、古山がや優位で終了したかに見えたが、判定は2-1のスプリットでフェルナンデスが勝利。露骨な地元判定とも言われた。この試合直前に古山は左拳を骨折していて、顔面を強打することができなかったことが判明。柔らかいボディしか打てなかった悲運に見舞われていたのだった。
そして三度目は、フェルナンデスからタイトルを奪った、タイのセンサク・ムアンスリンに、1976年に東京で挑戦。センサクの破天荒なボクシングに翻弄されたまま判定負け。世界戦3試合で強打を発揮することはできなかった。
ライオン古山のボクシングの特徴は、何といっても朴訥で正直。最初からポイント等は無視して、強打を当てることしか考えていないようなボクシングだった。それでも一発当たれば強い。この正直で生真面目なキャラクターに好感が持てた。
「もしあの時…」と歴史に残るボクサー
「アンラッキー・ブルース」の山本茂さんとは、その後、何回か学会でお会いする機会があった。人生にタラレバはないのだけれども、「もしあの時…」と思わせるボクサーが何人もいるものだという点で意見が一致した。
そして「どのボクサーに一番世界チャンピオンになって欲しかったですか」と訊かれたので、私は迷わず「それはもちろん、ライオン古山さんですよ!」と返答した。山本さんも納得したように笑顔で大きく頷いていた。
もう30年以上も前のことである。
タイトルを獲れなかった名選手たちへ想いを馳せる
チャンピオン会には、多くの世界タイトルを獲得したボクサーの人たちが登録されているが、様々な不遇や悲運が重なって、世界タイトルを取れなかったボクサーがいたことを、もっと多くの人に知ってほしいと思う。
久しぶりに古山会長の姿をテレビで拝見して、ふとそんなことを思った。

理事長:今村庸一
1956年生まれ。駿河台大学メディア情報学部名誉教授。メディア論。東京大学大学院社会学研究科卒。
放送作家として数多くのスポーツ番組の企画・構成を担当。1990年よりWOWOWエキサイトマッチの構成を10年間担当。「ワールドボクシング」にもコラムを連載するなど多数執筆。


