ちばてつやと「あしたのジョー」
ちばてつやさんが亡くなった。享年87。数々の漫画を描き、その功績が認められて大学教授・学長、日本漫画家協会会長、そして文化勲章受章と輝かしい足跡を残されてきた。しかし、そんなことよりも、何といってもボクシングの魅力を伝えた「あしたのジョー」を称える、賞賛と惜別の言葉がネット上に数えきれないほど溢れた。ちばさんの功績については語り尽くせないほどだが、ここでは、ちばてつやと「あしたのジョー」について、私的な思い出から関連する番組、そして私の大学の講義で扱ったことなどを縷々綴ってみたいと思う。
「少年マガジン」で見た「あしたのジョー」
「あしたのジョー」を初めて見たのは、小学生の頃のことだったと思う。連載の開始は1968年とあるので、もう58年も昔のことになる。当時は少年漫画雑誌が人気で、「あしたのジョー」は「少年マガジン」に連載されていた。最初に覚えているのは、とにかく暗い少年院の室内の情景で、台詞(セリフ)が殆どなく、壁や鉄格子や窓などの室内の情景と、そこにいる収容生たちの陰鬱な姿だった。新参者として矢吹丈が入ってくるが台詞はない。表情や眼の動きがあり、吹き出しにはただ「・・・」(無言)が示されているだけだった。やがて夜になり、闇の中で凄惨なリンチが始まる。何とも少年漫画としては気の滅入るような内容だった。
作者は「ちばてつや」とあった。彼の作品では学園ものの「ハリスの旋風(かぜ)」を見ていたので、あの痛快なイメージとはかけ離れた重々しい世界が「あしたのジョー」の第一印象だった。そこから始まる矢吹丈と力石徹の物語は不思議な魅力があって、いつの間にか毎週新刊が出るのを待ちわびるようになっていったのだった。
「あしたのジョー」は、スポーツとしてのボクシングというよりもルールなどない不良少年の喧嘩が題材となっていて、矢吹丈が丹下段平と出会うことによって本格的なボクシングへの道が開かれることになっていく。そして少年院に送られたジョーへ、段平からハガキでボクシングの基本を伝授する「あしたのために・その1」(左ジャブ)「あしたのために・その2」(右ストレート)。さらに高等技術の「あしたのために・その3」(クロスカウンター)と話が及ぶに至り、これはなかなか面白いと思うようになっていった。
漫画の世界では群衆のことをモブ(mob)と言うのだが、「あしたのジョー」に描かれるモブの描き方が実に魅力的で、まるで本物の殴り合いの場面の静止画を見ているように、瞬間瞬間の人物の動きや体の線が生き生きと描かれていた。これは後に知ることになるのだが、ボクシングを題材にすることになって、ちばさんは当時、後楽園ホールビルにあった田辺ジムに日参してはボクサーたちの動きを毎日のようにスケッチして研究していたそうだ。そのせいか、矢吹丈と力石徹の凄絶な試合も二人のパンチを交換する体の線が実に迫力満点で、しかも美しく描かれていた。その当時は少年漫画といえばギャグ漫画が主流の時代だったが、手塚治虫やさいとうたかをなどが後の劇画の先駆けとなるストーリー漫画の基礎を築いていた頃のことだった。そういう意味でも「あしたのジョー」は迫力ある動画をイメージさせるような新しい漫画だったとも言えるのである。
テレビアニメ化された「あしたのジョー」
「少年マガジン」で漫画「あしたのジョー」の人気が上がり、さっそくテレビアニメ化されることになった。初回放送されたのは1970年4月だった。翌年の9月まで全79話が、フジテレビで水曜19時から30分間放送された。これも漫画とはまた一風異なった趣があり、日本のテレビアニメの歴史に残る作品になっている。
このときのことについて、後にちばさんが語っていたところによれば、当時はまだ「少年マガジン」の方の連載が続いていて、テレビアニメが始まってしまうと、あっという間に追いつかれてしまうので、ちばさん自身はテレビアニメ化には反対したそうだ。しかし雑誌の方で人気が高かったため、あれよあれよという間にテレビアニメの話が進んでしまったそうだ。アニメは大人数をかけて分業も出来るが、漫画は漫画家がひとりで黙々と描かなければならない。同じ「あしたのジョー」でも、漫画とアニメでは全く違う世界が同時進行していたことになる。ここは日本の漫画とアニメの歴史を調べると、メディア論としてもなかなか面白いところで、私自身も興味をもっていた分野でもあった。
大学の講義の「アニメーション文化論」で講じた「あしたのジョー」
実は私自身、大学で教えるようになってから、一時期「アニメーション文化論」を担当したことがある。
私の専門はメディア論、映像メディア史、ジャーナリズム論、国際関係論などだが、大学の方針で学生に人気のあるアニメ関連の科目を設置することになり、各々の専門分野を生かしながらアニメの授業を担当することになったのだった。それまで日本や世界のメディアの歴史やジャーナリズム史なども教えてきたのだが、メディア史の中でも情報の中身を研究する分野としてコンテンツ研究というものがある。これは新聞記事やテレビ番組や映像作品などを対象としながら、その作品が成立するまでの過程や配信されるメディアの環境などを考察していく分野ということになる。しかもこれは学生の趣味の世界を提供するわけではなく、そのコンテンツを通じてメディアの条件や背景を学ばせる目的もあった。
「アニメーション文化論」の講義を担当することになり、私は日本の漫画文化とテレビアニメの歴史を辿り、同じ作品が雑誌とテレビで同時に配信されるメディアミックスについて取り上げることにした。そして学生にも高い関心がある作品がいいと考えたので、手塚治虫の「鉄腕アトム」と、ちばてつやの「あしたのジョー」を授業で扱うことにした。
シラバスにそのような内容を書いたら、受講希望者が殺到して、200人教室に入りきれなくなるくらいの学生が登録し、中には明らかにもぐりと見られる学生も参加しているようだった。
「あしたのジョー」では、できるだけ漫画からテレビアニメが放送されるようになった経緯と、1970年当時の社会背景や時代背景を説明しながら、なぜこの作品が少年漫画やテレビアニメとして人気があったのか、また漫画の原作者の高森朝雄(梶原一騎)やちばてつやの仕事はどのようなものだったのかを詳しく解説しながら、実際のアニメ「あしたのジョー」を大きなプロジェクターで見せるようにした。講義の意図が学生たちにどこまで伝わっていたのかは分からないが、とにかくこの授業は殆どの学生が真剣に見ていたようで、学期末のレポートには初めて「あしたのジョー」を学ぶことができて本当に良かったとするものが多かった。こういう形で単に作品を鑑賞するだけでなく、メディアミックスのことや日本のテレビアニメの歴史を学ぶことは、現代の若い世代にとっては大切なことなのだろうと思う。「鉄腕アトム」や「あしたのジョー」は、もはや日本のアニメ文化を代表する伝説的な作品でもあるが、大学などの講義の中でその成立過程や時代背景をしっかり学ぶような機会がもっと増えるといいのではないかと感じたのであった。
アニメ監督・出崎統が描いた「あしたのジョー」
「アニメーション文化論」の授業の中では、学生たちに作品を見せるだけでなく、ちばてつやさんをはじめとする制作者のドキュメンタリーやインタビューなども出来るだけ見せるようにした。
「あしたのジョー」については、2007年にNHK-BS2で放送された5夜連続「とことん“あしたのジョー”」という番組があった。これは総放送時間23時間45分にも及ぶ空前絶後の壮大な「あしたのジョー特集」で、テレビで放送された「あしたのジョー」全79話を一挙放送したほか、アニメ制作の裏側についても関係者の貴重なインタビューや、ちばてつやさんのインタビューなど盛りだくさんの内容だった。
授業ではこの番組を紹介しながら、日本のメディアの歴史と合わせて私が解説する形式で進めていった。特にこの番組で貴重なものとして、漫画家のちばてつやとアニメ監督の出崎統(でざきおさむ・2011年67歳で没)との対談があった。この二人は日本の漫画界やアニメ界を代表する有名人なのだが、直接会うのは何と「あしたのジョー」が放送されて以来37年ぶりということであった。
出崎統さんは若い頃から手塚治虫の「鉄腕アトム」の作画なども担当していたが、「あしたのジョー」がテレビアニメ化される際に、自ら志願し、その実力を評価されて全体を統括するアニメ監督に抜擢された。当時26歳だった。ちばてつやの漫画「あしたのジョー」からアニメ「あしたのジョー」を制作することになった経緯がなかなか面白い。第1話の冒頭シーン、泪橋(なみだばし)を渡る矢吹丈の後ろ姿を追いかけるように画面が移動する。このシーンについて出崎さんは「何者かわからない流れ者のジョーを、俺たちはどこまでも追いかけていくぞという気持ちでこのシーンを作った」と言う。これはアニメという動画でしか出来ない表現で、カメラワークではドリーのフォローショットというものだが、現代でいえばドローン映像が歩くジョーの後ろ姿を追いかけるように作画されている。
それ以外にも、日本のテレビアニメに革命的な効果をもたらした演出がいくつもあり、当時鬼才と言われた出崎統の斬新な表現が随所に認められる。まずは光の表現。逆光や斜光など、従来の平面的な画像しかなかったアニメの世界に、本格的な光の演出を試みたのがこの作品だった。次に動画でありながらスローモーションや静止画そしてネガ(反転)画像の使用など、決定的な瞬間を表現する際に、時間を調整したり止めたりする効果が使用されていた。出崎さんによれば、ちばてつやの漫画を見るとそこから明らかにスローモーションや時間の静止が感じられるという。漫画とアニメの制作者の間の以心伝心があったのだろう。
出崎さんは静止画を描くときには額に入れて飾れるくらいの絵を描くようにしたと語っていた。それから眼の表現も秀逸だった。矢吹丈をはじめとして登場人物の心理描写を表現するために5種類の眼の表現を作画担当者に要求したそうだ。アニメ「あしたのジョー」では、人物のアップの画面の眼が、時々閉じたり瞬き(まばたき)をしたり、何かに驚いたり気づいたりした時の微妙な動きが表現されている。これは漫画のちばてつやさんもこだわっていたところで、漫画を描くときに一番気を使ったのがやはり眼の表現だと言っていた。漫画にしてもアニメにしても「眼は命」で、感情表現の核心がそこにあったのだろう。
そしてもうひとつ。アニメで重要なのが音の演出だ。ちばさんは出崎さんとの対談で、アニメが放送されるようになってから、どの部分にどんな映像や音の演出がされているのか興味を持って見ていたそうだ。テレビや映画の音楽や効果音をつける専門職はサウンドエフェクトといってSEさんとか音効さんと呼ばれるが、アニメ「あしたのジョー」の音響効果は浦上靖夫さんが担当していた。
浦上さんによれば、使える音楽が限られていたので、その場の空気感や見ている視聴者の鼓動まで計算して効果音をいろいろ用意したそうだ。クロスカウンターが炸裂したシーンでは敢えてノンモン(無音)にしたり、血潮をイメージした波の音を入れたりしたという。私も放送作家時代に優れたSEさんに随分助けられたことがあったが、アニメ「あしたのジョー」はそれまでなかったような斬新な音響効果が施されていることがよく分かる。
漫画家ちばてつやとアニメ監督出崎統との対談
アニメ「あしたのジョー」が放送された頃、テレビアニメは「まんが映画」と呼ばれて安っぽい娯楽作品というイメージが強かったという。26歳のときにこの番組の監督を担うようになった出崎さんは、このような風潮を打破して、それまで誰もやったことのなかったような作品を作って、テレビアニメも立派なアートであることを証明しようと考えていたと語っていた。
この番組の一番の見どころは、漫画家のちばてつやさんと、新進のテレビアニメ監督だった出崎統さんが、約37年ぶりに当時を振り返った初の対談だった。このとき、ちばさん68歳、出崎統さん64歳。一期一会の貴重な対談だったので、私の「アニメーション文化論」の授業でも、この内容をレポートの課題にしたものだった。
最初にちばさんから、漫画「あしたのジョー」の話が来たときに高森朝雄(梶原一騎)さんの原作を見て、こんな乱暴な物語を自分が描けるか不安だったという話があった。それで原作にはなかった下町の人々や子供たちのオリジナルのキャラクターを入れるようにしたと言う。
ここは、どんなに厳しい人生でも人と人の温かい気持ちを大切にする、ちばさんの基本的な考えが反映されていたのだろう。男たちの猛々(たけだけ)しいボクシングの話だけでなく、矢吹丈や力石徹を取り巻く人間模様もこの作品の魅力になっている。
ちばさんは「あしたのジョー」を描いているときの心境を語った。
ちば : 「僕は描いているときは、ジョーと段平と力石と葉子たちの日記を書いているような気持ちでしたよ。それで書き終わってから、ああ力石はジョーにとって大事な人物だったんだなあと、あとから気がつくことがあって、描いているときは本当は分からなかったんですよ。それでアニメを見るとジョーが振り向いたり、眼が踊ったりして、動きや声や効果音などがあって羨ましいなあと思ったりしましたよ。漫画だといくら“ビシッ、バシッ”と書いても、どうすればアニメのような表現を紙に描けるかと思っていましたよ。でも僕は、いつも漫画を描きながら映画を作っているつもりで描いていましたよ。絵には水の音やBGMが流れているような気持ちで描いていました。しかしやはりアニメの表現を見ると、いろいろなことが出来るので、そこから新しい発見をすることも出来ましたね。」
出崎さんは特にこだわったシーンとして、力石が少年院を出ていく場面を挙げた。
出崎 : 「最初ジョーは力石をやっつけなければならない相手と思っていたけど、ボクシングを通してある意味自分を理解してくれる初めての存在になっていったように思うんですよ。孤児院で育って家族の愛情に触れられなかったジョーにとっては、少年院で出会った年上の兄貴分のようなもので、いざ力石が出所するときになると、自分にとって大切な相手だったことに気がつくわけです。そのときの力石を見送るジョーの気持ちを何とか出したいと思って、スローモーションで鉄扉が閉まるようにしました。」
ちば : 「あのガシャーンと閉まるところね。」
出崎 : 「あそこで、だんだん遠ざかってカッコよく去っていく力石を見て、ジョーは“何で行っちゃうんだよ”という気持ち。それを出したかったんですよ。」
ちば : 「(感心しながら)いやぁー、私よりも出崎さんの方がキャラクターのこと知ってますねえ。なかなか鋭いですね。そういえば、そんなことを考えながら描いていましたよ。」
このあと、力石とジョーがプロのリングで対決する段階になって大きな問題が生じる。矢吹丈がバンタム級、力石徹がライト級と二人の体格差が歴然としていたことだ。実はこれも偶然に発したものだった。
ちば : 「最初は力石は少年院の中だけの存在だと思っていたんですよ。(高森さんの)原作には、力石とジョーが初めて会ったときに“見下ろすような”と書いてあったんで、ジョーより年上でもあるし少し大柄に描いたんです。そうしたら原作者が面白いと思ったのか、力石は少年院から出たあともジョーのライバルになっていきました。ここで困ったのが、二人の体格差の問題です。元々、力石は大人の体格だしジョーは少年の体格で描いていましたから、こういう問題が出てくるとは思ってもいませんでした。それでどうしたものかと相談したんですが、結局、力石がジョーのバンタム級まで減量するというドラマを考え出したんですから、原作者は大したものだと思いましたよ。」
「あしたのジョー」の有名なシーン、力石徹の過酷な減量のシーンはこうして生まれた。ちばさんの話によれば、これは最初から予定されていたものではなく、偶然の産物だと言う。
しかし、その偶然が、ボクシングの壮絶なもうひとつの戦いを強烈に表すことになった。アニメの方でもこの場面は鬼気迫る迫真のシーンとして描かれていた。減量で水を欲っしている力石が、夜中に半狂乱になって水道のところに行くと、水道の蛇口が全て針金で固定されていて水が出なくなっていた。この逸話は実際に過酷な減量をしていたファイティング原田さんの話が元になっているそうだが、ボクサーの減量を描いた名場面として記憶されていることだろう。
漫画「あしたのジョー」で力石徹が死んだあと、「少年マガジン」の編集部にはたくさんの弔電が送られてきた。1970年3月24日に、力石徹の告別式が行われると、平日の昼間にも関わらず、大勢の人が弔問に訪れ社会現象にもなったという。車で会場に向かったちばさんは、途中から喪服を着たり花束を手にしたりする人たちが長蛇の列を作っていたのを見た。中には眼を赤く腫らして涙ぐんでいる人もいたという。
これを見たちばさんは、鳥肌が立つのを覚えて、これだけ多くの人が自分が描いたキャラクターのことを真剣に読んでくれていたことを知ったという。そのあとこれは真剣に描かなければならないと思って、漫画を描くことが怖くなったと語っていた。
出崎さんは「あしたのジョー」について、こんなことを言っていた。
出崎 : 「最後にジョーがコーナーに座って真っ白に燃え尽きたシーンがありますよね。あそこでジョーは眼を閉じて、少し微笑んでいますよね。僕はあれは死んだんじゃなくて、少し休んでいるんじゃないかと勝手に思っていますよ。もう37年以上もの時間が経って、もう終わったはずなのに、こうして振り返ってみると、まだ続いているんだなあと思いますね。いや、まだ何も終わってないんじゃないかと思うと、それはそれで嬉しいことですよね。」
数多くの名作を残してきたちばさんも、改めて「あしたのジョー」についてしみじみと語った。
ちば : 「こんなに深く人生を語ることが出来るなんて、漫画は本当に表現力があるなと思いますよ。自分でも気がつかなかったんですけど、こんないろいろな人たちに影響を与えることが出来る漫画や劇画って、凄い媒体だなって改めて感じましたね。」
「あしたのジョー」が遺したもの
漫画の連載から58年。テレビアニメ放送から56年。ちばてつやさんも、出崎統さんも、すでに鬼籍に入った。
しかし、この時代、矢吹丈と力石徹の物語は、ボクシングの魅力と二人の生き様を鮮烈に描いてみせた。それが今の時代まで多くの人たちの記憶に残り、次の世代にも語り継がれているのは、それだけの中身がある証拠なのだろう。
私自身の記憶を辿ると、1968年に小学生の頃、「少年マガジン」で漫画「あしたのジョー」を見てから、1973年の高校生のときに完結するまで、殆ど見逃さずに読んできた覚えがある。私と同世代の人たちは、きっと同じような経験をしてきたのではないだろうか。まだ自分自身の人生がどうなるのか分からない多感な時期に、この作品から夢や勇気を受けた人たちも数多くいたことだろう。
またボクシングという究極の厳しいスポーツには、様々なスタイルや戦術があることをこの作品から学んだボクサーやトレーナーもいるはずだ。この作品を見てボクシングを始めたという世界チャンピオンもかなりいるのではないか。それだけ「あしたのジョー」は、日本のボクシング界にとっても価値のあるものだったことは間違いないだろう。
まだビデオもパソコンもスマホもなかったあの時代。「あしたのジョー」に熱い思いを抱いて生きてきた人たちのことを、改めて思い返してほしいものだし、今の若い世代にもその思いを是非受け継いでいってほしいと思う。

世界チャンピオン会 顧問:今村庸一
1956年生まれ。駿河台大学メディア情報学部名誉教授。メディア論。東京大学大学院社会学研究科卒。
放送作家として数多くのスポーツ番組の企画・構成を担当。1990年よりWOWOWエキサイトマッチの構成を10年間担当。「ワールドボクシング」にもコラムを連載するなど多数執筆。

